| 【「すいよう会」誕生の頃】 |
◆昭和30年1月3日午後、代々木文化会館に於いて第1回目の会を開きました。美土代町のYMCA芸術園でのクラスメートを中心に100名以上の皆様でした。
勿論英国ボールルーム一辺倒の時代でしたし、それは最近まで続きました。音楽はまだSPレコードの時代で、新品レコード店と、中野、新宿、上野、浅草の古レコード店で探したタンゴとダンスレコード、そして持ち寄ってくれたSPレコードとで第1回目からプログラムを組みました。
◆代々木文化会館の時代にブエノスアイレスから帰国された山本満喜子さんがアルゼンチン人の男性と共に来会されてアルゼンチンタンゴ・バイレを見せてくれましたが、英国派の皆様には『チークダンスのデモを見せられた…』と大不評でした。 |
 |
|
リブロポート1994年刊「にっぽんダンス物語〜交際術の輸入者達」:永井良和著
―その「第1部:海を渡るサムライ…加藤兵次郎の夢」は、アルゼンチンタンゴ・ダンスを習いたくて、日本人として初めてブエノスアイレスに行った人の話…彼は1935年(昭和10年)1月10日にSADAIC会長のフランシスコ・ロムートに宝塚会館と京都・東山会館からのカップを贈呈しましたが、このカップは翌年ガルデルに贈られたと日本の外務省に連絡があったと77ページに記載されています。そして..... |
◆アルゼンチンダンスを習って帰国し、踊って見せたのだが、日本のダンス界には大不評だったと書かれているのを読んだ時に…あの山本満喜子さんが当会で踊ってくださった時のことを思い出しました。
アルゼンチン・タンゴ・サロンの踊りは、他人に見せる踊りではないということでしょう。加藤兵次郎のアルゼンチン行きは、(日本タンゴ界の草分け)高橋忠雄氏より1年前でした。 |
|
|
|
|
|
|
|
| 【フェルナンド・テルさんのこと】 |
◆さて、1961年に来日されたフェルナンド・テルさんを中西義郎さんが代々木文化会館でのすいよう会にお誘い下さいました。テルさん、バンドネオン・ソロでタンゴの数々を演奏されたのですが、初めて聞くソロは正に驚きでした。それも、予想した13年在籍のトロイロ(スタイル)ではなくて、大変にバイラブレな演奏でした。【もっともテルさんもバンドネオン・ソロは初めてで、飲めないウイスキーをあおって…と、後日彼から伺いました】
◆テルさんにはその後1963年帰国までの間に何回も、ソロで、トリオでと来会演奏、そして近郊へのハイキングに2回参加いただきました。 |
|
 |
◆テルさんは1963年にタンゴ“SUIYOKAI”作曲、3月26日のヤマハタンゴ演奏会でトリオでの発表、ヤマハタンゴ8月27日フェルナンド・テルさよなら演奏会の間に何回か演奏下さいました。
◆タンゴ“SUIYOKAI”は、その後<梅川健とビクトリア><リバダビーア楽団>そして現在は<スエーニョス楽団>が演奏。感謝。 |
|
|
|
|
|
|
| 【会場の変遷】 |
◆代々木文化会館が東京オリンピックのための首都高速道路工事で使用できなくなり、すぐ近くの妙智会館に移り、例会の他に<オルケスタ・ティピカ東京>で踊る会も開かれたこともありましたが、その後、田町の新日本会館に移り、ここでは<梅川健とビクトリア>の演奏による会も開かれました。
◆そして、東医健保会館が信濃町に移り、広い会場が出来るにつれて会の企画の総てを東医健保会館でとなります。 |
 |
|
◆1969年12月フアン・カンバレリ4重奏団+阿保郁夫さん、1970年ホセ・バッソ楽団、1970年5月ブエノスアイレス5重奏(ダリエンソ5重奏)、1971年エクトル・バレーラ楽団+アルベルト・マリーノ+ロシータ・キロガ…これだけで紙面が無くなりますので別の機会にしますが…等歓迎パーティが開かれました。
◆またその間には、河内敏昭さんに楽団演奏をお願いしました。<早川真平とオルケスタ・ティピカ・東京><東京キューバンボーイズ>その他多くの楽団の来会演奏が東医健保会館でありました。 |
|
|
|
|
|
|
| 【アルゼンチンタンゴバイレへの道】 |
| ◆アルゼンチンタンゴのグループレッスンは、1972年6月に3日間、エドゥアルド&グラシエラ先生により開かれました。3日目にはテストがあり、合格者には合格証が授与されました。アルゼンチンタンゴの日本で初めてのグループレッスンでした。が、エドゥアルド先生の「サリーダ(踊り始めのための基本動作)」は、7で足を揃え、8で後退することと、ボールルームのS.Q.Q.に慣れた英国派にはムードで動くエドゥアルド流が理解できなかったようで、そのまま消えてしまった… |
|
 |
◆それから14年の月日が流れ1986年と87年の8月のアルゼンチン・タンゴ・ツアーの際にオスバルド&グラシエラ先生にホテル・パナメリカーノでグループレッスンを設けました。
◆日本での2回目のレッスンは、1988年4月オスバルド&グラシエラ先生によりますが、以降は別記を参照下さい。
|
|
|
|
|
|
|
| 【ボールルームダンスのレッスン】 |
◆数名の先生にボランティアいただき大盛況でした時代もありましたが東医健保会館の2階のホールの会場費が2万5000円でも厳しかったのに、更に4万2000円(税込み)に値上げになって…会費値上げ…参加者減…講師の方に寸志を払うことが出来なくなって:レッスン無しの練習会…参加者減…莫大な赤字の補填が出来ず…4階の会議室:(会場費18900円)の部屋を利用することに…しかし幅が狭いと更に参加者減少…遂に数人になって:莫大な赤字に耐えられず:英国ボールルームダンスのレッスンは5年前の7月で終止符を打ちます。
◆黒木皆夫さん他有志の助言もあり、9月よりアルゼンチンタンゴの集いとなりますが、何回かは平行して様子を見ました。 |
|
|
◆【第2土曜日例会(ダンスの集い)】
東医健保会館で第2土曜日に開かれていた例会(ダンスの集い)は、5年前の5月例会の参加14名を最後に新宿区地域センターで、火曜日レッスンと1本で開かれることになります。 |
|
|
|
|
|
|
| 【アルゼンチンタンゴダンスに転換】 |
◆東医健保会館4階でのボールルームダンスは、引き続き9月よりアルゼンチンタンゴ専門の集いに:初心者の為に約1年間有志の先生がボランティアくださいました。
◆会場も東医健保会館から、新築で更衣室の有る四谷地域センターと落合第一地域センターに移り、現在に至っています。現在はレッスン無しのタンゴパーティです。 |
 |
|
|
|
|
|
|
| 【標準テンポ33に縛られる英国タンゴ】 |
| ◆英国ボールルームダンスのタンゴの場合は、標準テンポ1分間33小節と設定されています。リズムで途中に遊びの有るのは勿論不可です。踊ってみると分かるのですが、32でも34でも不思議に踊りにくいのです。 |
|
 |
◆かつて、昭和30年頃でしたでしょうか、街頭テレビ華やかなりし頃でした。英国からダンスチャンピオンのケン・スクリブナー氏が来日し、全日本選手権戦で審査をし、早川真平とオルケスタ・ティピカ東京が演奏するラ・クンパルシータでデモをしましたが、踊っている途中で、手で合図をしたのです。早川さんは、テンポが遅いからもっと早くとの合図かとテンポを速めます。「リズムが弱いからリズムを強めよ、ということだったのに、リズムがどんどん早くなった。アルゼンチンタンゴはダンスに向いていない、標準テンポを守れ」とかんかんだったとJATDの技術部の方に後で聞きましたが、アングロサクソンにはドラムが入らないとリズムが取れないのかと?笑い、溜飲を果たしたものでした。
◆後に中西義郎氏と知り合ってその話をしましたら、あの時には本当に困ったと思い出されていました。
|
|
|
|
|
|
|
| 【標準テンポにしばられなくなって】 |
| ◆アルゼンチンタンゴダンス専門になってテンポ33に縛られなくなったこと、大好きなプグリエーセ、ディサルリ、そしてバルガスでも、プログラムが組める事は、たいへんに嬉しい。 |
|
|
◆しかし、地域センターの音響装置は、CDかカセットテープしか演奏できないので、CDの収集といっても中古でしか手に入らないのが多く、テリーレコードに日参する。ブエノスアイレスでは、売れ残りCDを探し歩きました。四谷も、落合も地域センターのCD装置は日本ビクター製ですがメモリーはカウント方式で、メモリーに時間がかかる。踊り手は冷えてしまう。
◆アルゼンチンタンゴ・バイレ向きのCD200枚余を並べ編集しました。 |
|
|
|
|
|
|
| 【スエニョス楽団の演奏】 |
| ◆東医健保会館の時代には、三木信夫氏、蟹江丈夫氏による<リバダビーア楽団>にボランティア演奏いただきましたが、地域センター時代に入り<スエニョス楽団>が演奏。「チケ」「レクエルド」「台風」「ラ・ジュンバ」「タンゲーラ」などのリクエスト曲も取り上げてくれています。 (未完) |
 |
|
|
|
|
|
|