HISTORIA de SUIYOKAI
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当会の歴史、由来等を知っていただくためのページです。
まずは、故 湯沢修一 前会長の追悼文をごらん下さい。
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タンゴ愛好会に懸けた人生
−湯沢修一氏を偲んで−

飯塚 久夫 (text por IIZUKA Hisao)


 去る7月19日夕刻、タンゴ愛好会<すいよう会>を47年にわたり主宰してきた湯沢修一氏が逝去された。享年70才であった。

 想えば、<すいよう会>が誕生したのは、昭和30年(1955年)1月3日午後、代々木文化会館でのことであった。美土代町にあったYMCA芸術園でのクラスメートを中心に100名以上の人が集まったそうだ。<すいよう会>はまずSPレコードで踊る会として発足したようである。さらなる源流は<ポルテニア音楽同好会新宿支部>を、湯沢氏が引き受けたところにあるという。

 その後、ブエノスアイレスから帰国した山本満喜子さんが<すいよう会>でアルゼンチン流のタンゴ・バイレを披露してくれたが、当時は英国流ボールルーム・ダンス全盛の時代で、山本さんの踊りを見た会員たちには、『チークダンスのデモを見せられた』と大不評だったという逸話もある。その<すいよう会>にそして湯沢氏個人にとっても、大きなインパクトを与える人物が登場する。

 61年に来日したバンドネオン奏者、フェルナンド・テルである。
 テルは、54年のホルヘ・カルダーラ、59年のリカルド・フランシアに次ぎ来日した本格的なアーティストで、ライブにレコードにと日本のタンゴ史に刻んだ足跡は大きい。東京新宿の“シャンテ”や、ヤマハホールでの印象が脳裏に焼き付いているタンゴの先達ファンも多いことであろう。
 
 <すいよう会>には、故中西義郎氏が紹介して以来、ソロでトリオでと数回の来会演奏をし、これまた湯沢氏のバラエティに富んだ企画の一環であるハイキングにも2回参加している。そして、このテルが、湯沢氏にとっておそらく、当時最高の光栄であり、またその後の<すいよう会>史に大きなバリューを与えてくれたあのタンゴ「SUIYOKAI」を作曲してくれたのだ!
 
 その初演は、63年3月26日、ヤマハ・タンゴ・コンサートにおいて、テルのトリオ(ギター:河内敏昭、ベース:福島敏夫、司会:高山正彦)によって行われたのであった。その約半年後、63年8月27日に満員の入場者を集めてヤマハで送別演奏会が行われ、9月2日、テルは横浜港から帰国の途についた。

 この曲「SUIYOKAI」は、梅川健楽団の譜面を引き継いだ“スエニョス楽団”によって、99年10月に初CD化されたが、何と、2000年に発売されたテルのCD(アルゼンチンe(m)r盤)に、あの63年の初演録音が収録されたのだ。当初は39cm/secで録音されたものを、19cm/secに再録し、それを湯沢氏がカセットテープ化して、アルゼンチンを訪問した際に進呈したものからCD化されたようだ。このCDには、82年に録音されたテルのソロによる「SUIYOKAI」も収録されている。

 その後、<すいよう会>は、代々木文化会館が東京オリンピックのための首都高速道路工事で使用できなくなり、近くの妙智会館、田町の新日本会館と移る。“オルケスタ・ティピカ東京”や、“梅川健とビクトリア”も来会した。そして、東医健保会館が信濃町に移った機会に、<すいよう会>も広い会場が確保出来るようになり、会の企画の総ては最近まで総て東医健保会館で行われるようになった。毎月第4土曜日にコンサート、第2土曜日にバイレの例会、毎週火曜日にバイレのレッスンといった具合である。加えて春夏秋冬に野外活動が行われた。こうして、<すいよう会>の活動は湯沢氏の献身的な努力によって、コンサートに、バイレに、ハイキングやスキーにと、縦横無尽に、愛好会発展の象徴ともいえる道をたどることになる。

 まず、その典型は、来日アーティストの来会である。テルの後、65年11月にはO.プグリエーセ、O.ルジェーロ、O.エレーロ、J.マシエル、69年12月にはファン・カバレリ四重奏(歌:阿保郁夫)、70年4月15日にはホセ・バッソ楽団(歌:ベルーシ、ロッシ)、70年5月9日には、ブエノスアイレス五重奏(歌:マリナ・ドレール)、71年6月26日にはエクトル・バレーラ楽団(歌:アルベルト・マリーノ、この時は加えてギターラス・デ・オロ、そして歌いこそしなかったがロシータ・キロガが同行、マリーノに「シガ・エル・コルソ」をリクエスト)、72年1月にクリスティーナ&ウーゴ、72年2月にグラシエラ・スサーナ(彼女はその後も数回来会)、72年5月13日にはフロリンド・サッソーネ楽団(歌:ビアンコ、踊り:エドゥアルド&グローリア)、72年8月3日にはC.ラサリ率いるダリエンソ楽団(歌:アルベルト・エチャグエとメルセデス・セラーノ)、73年5月7日にはフランチーニ=ポンティエル楽団(歌:アルバ・ソリス)、そして74年にはカルロス・ガルシーアとタンゴ・オール・スターズと、一流楽団の来会が続いた。この後もほぼ毎年、本場の錚々たる人たちが「すいよう会」を訪れた。

 私が<すいよう会>に入会したのは70年のことであるが、裏から見ていて、あるいはその一端を手伝った立場からしても、これらの行事を計画し、準備し、実行し、後フォローまで、一愛好会としては本当に大変なことであり、それをすべて湯沢氏がいかに精力的にこなしたか、驚嘆の念を禁じ得ない。湯沢氏のタンゴに懸ける真摯な情熱あってこそ、こうした驚異的なイベントの数々がもたらされたのである。

 そうした点では、<すいよう会>での本場講師によるタンゴ・バイレのレッスンも忘れてはならない。72年6月3、6、10日、3日間のエドゥアルド&グローリアによる指導は、本場講師による日本で初のアルゼンチン・タンゴのグループ・レッスンであった。3日目にテストがあり、合格者には“ディプロマ”が授与された。私もグローリア(当時25才)に踊ってもらい、エドゥアルド(当時35才)から合格証を渡されたあの時の感動は30年後の今も記憶に新しい。ダンスも愛した湯沢氏にとって、タンゴ「SUIYOKAI」初演と並ぶ栄光の日であったであろう。それから約15年後、“タンゴ・アルヘンティーノ”のブームを契機にアルゼンチン流の踊りが世界的に広まるようになり、<すいよう会>でも改めて本場講師のレッスンが始まった。88年4月25、28日のオスバルド&グラシエーラを始めとして、その後は今日に至るまでほぼ毎年続けられてきた。

 しかも、これだけ輝ける企画を実行しながら、湯沢氏自身は、いつも自分が自分がと表に出るのではなく、ひたすら、人の喜びが自らの喜びの風であった。

 さらに、湯沢氏の偉業を語る上で特筆すべきは、<菅平高原タンゴ・フェスティバル>である。79年9月15、16日を第一回に毎年欠かすことなく開催され、全国のタンゴ・ファンが集い、演奏する場として貴重な位置を占めてきた。多いときには参加者は200名を越えることもあった。今年10月19日はその24回目であり、湯沢氏は予定プログラムまで作っていたのだ!まさか、そのちょうど3ヶ月前に自らがいなくなるとは想像だにせずに.....この<菅平高原タンゴ・フェスティバル>も、湯沢氏とともに終焉を迎えることになるのであろうか.....

 多くの回数を重ねた点で、もう一つ記録に留めたいことがある。ほぼ、毎年続けられたアルゼンチンへの<タンゴ・ツァー>である。アルゼンチンに行くたびに、生前のプグリエーセが空港まで迎えに来てくれ、C.ガルシーアを始めマエストロたちが大歓迎をしてくれた。これも、本年8月7日から19日に第18回目が実施される予定であった。

 回数を重ねるという点では、<すいよう会>の「コンサート・ニュース」も、湯沢氏が会員やニュースを読んでくれる全国の方々のために寝食を忘れて取り組んだ傑作であろう。最近では年間50号近くになる発行回数であった。特色あるタンゴ情報として、この「ニュース」の到着を待ち望んだファンも多かったのではなかろうか?今、私の手元には、湯沢氏が7月4日付けで仕上げた今年の第30号がある。おそらく、これが湯沢氏の遺した最後の「ニュース」であろう。奇しくも、その1面には、78年に本場に乗り込んだ<第一回タンゴ・ツァー>をフィーチャーした週間時事の『ニュース』が載っている。

 湯沢氏は、ここ数年は、毎月、1回のタンゴ・コンサート、7〜8回のバイレの会と、超人的な活躍であった。加えて、上述の諸活動である。それを総て一人でこなしてきた。それだけに、意が高揚することもあった。しかし、そのすべては、心底からタンゴを、そして何よりタンゴを愛する人を愛する真情であった。真にイノセンテの人であった。その70年は、まさしく《タンゴ愛好会に懸けた人生》であった。

 湯沢さん、今頃は天国で、あのテルと、大好きだったプグリエーセと、あるいはディサルリとも語り合っていますよね。これからは、ゆっくり彼らの演奏を聴くことも出来ますね.....

本稿は株式会社ラティーナのご厚意により
 月刊「LATINA」誌2002年9月号より引用したものです。

http://www.latina.co.jp


タンゴバイレの変遷
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